其實3年零8個月啲慘況好多都係吹出黎
你去工聯會啲日文班又或者做義工幫人清潔
好多老人家話3年零8個月幫日本仔打工過得好好
唔想忘記日文所以要再學
呢啲係香港本土老人家
就算東江縱隊老手上TVB都講
當年撚有咁多人咩
都唔知點解老董時代可以擺到幾十圍
個個吹到自己一打十
呢啲係大陸入口嘅老人家
其實3年零8個月啲慘況好多都係吹出黎
你去工聯會啲日文班又或者做義工幫人清潔
好多老人家話3年零8個月幫日本仔打工過得好好
唔想忘記日文所以要再學
呢啲係香港本土老人家
就算東江縱隊老手上TVB都講
當年撚有咁多人咩
都唔知點解老董時代可以擺到幾十圍
個個吹到自己一打十
呢啲係大陸入口嘅老人家
中日歷史上各執一詞既矛盾,響明朝既萬曆朝鮮之戰已經出現過,但奇怪既係部份明史迷會為明朝開脫,甚至老吹科技強,打到豐臣軍一仆一碌
但實際上⋯係明朝除左早期平壤、開城外,後期幾乎逢戰必敗,雙方深構高壘,各自得唔到著數,先變僵持不下,望住堆倭城無從入手。
等到豐臣秀吉死左,臨尾明朝仲想執身尾彩,點知蔚山、泗川全敗,順天城既圍堵失敗,豐臣軍主要軍團幾乎全身而退。更不用提朝鮮除左水軍稍佳,陸軍簡直係豬隊友
想知更多,我之前在學術台寫既「戰國史第二個post」有講成個經過
集合一下支那人戰前刻意攻擊日本僑民和外國人的事件,有d連中文維基都無,唔怪得教科書唔教
中国の排外運動と労働運動[編集]
1915年(大正4年)、1919年(大正8年)、1923年(大正12)の排日運動は猛烈であったという[3]。1923年には宜陽丸事件が起きて、船長を射殺し、船客も殺害された[4][5]。
1924年(大正13)12月には、租界ボーイ領事館襲撃事件が起きた[6]。
1925年(大正14)6月1日にはイギリス租界暴動が起きて、日本人商店がすべて掠奪破壊され、日本人1人が殴殺された[7]。
1926年(大正15年)9月、商店三宜洋行が襲撃され、店舗、倉庫が中国人暴徒に破壊され、商品はもちろん、畳、建具、床板、窓枠までも剥がして持ち去った[7]。
1926年(大正15年)9月、国民革命軍が武漢を占領するころから、盛んに労働者を扇動し、人足や車夫、店員、工場員などに労働者団体を組織的に作らせ、二ヶ月ほどで200以上の団体、会員20万人を唱えた[8]。この労働団体の統制する組織が「総工会」で、共産党員が牛耳っていた[8]。総工会は糾察隊という6尺棒を持つ私兵を組織し、3000人を超えていた[9]。外国人を相手にするボーイなどの組織は「洋務工会」と呼ばれた[9]。
1926年11月、漢口では中国人ボーイや女中、また乳母のストライキと暴動事件が起きた[8]。糾察隊は6尺棒を持って租界を巡回し、三井物産の社員宅にその妻が一人でいたところ侵入し、押入れなどを勝手に開けるなど乱暴をした[9]。
1926年11月20日には、商店の川本洋行が中国人米屋から米俵4俵を届けてもらうと、糾察隊が「日本人には米を買わせない」と妨害し、2-30名が店内に押し入り、ショーウインドウや戸口のガラスが破壊され、商品を強奪し、店の主人は群衆にリンチを受けた川本洋行事件が起きた[10]。
1927年2月ごろから、日本租界外の同文書院付近の支那公園や富豪の屋敷の立ち樹や垣根などを引き抜いて持ち去るものがあった[11]。やがて日本人住宅にも及んだ。多くは付近の農民の女子供であったが、後には大人も出動し、大っぴらに斧で立ち樹を切り倒した[11]。農民協会で、外国人の境内であろうが、富豪の邸宅であろうが、立ち樹は中国人に授かったものだから当然奪取してよいと教えられたためという[12]。
1927年3月24日に南京事件が発生すると、中国人側は邦人凌辱事件を誇大に取沙汰し、無頼の徒は、漢口がそうなったら一番に若い女を狙うのだと放言していたとされる[13]。
集合一下支那人戰前刻意攻擊日本僑民和外國人的事件,有d連中文維基都無,唔怪得教科書唔教
中国の排外運動と労働運動[編集]
1915年(大正4年)、1919年(大正8年)、1923年(大正12)の排日運動は猛烈であったという[3]。1923年には宜陽丸事件が起きて、船長を射殺し、船客も殺害された[4][5]。
1924年(大正13)12月には、租界ボーイ領事館襲撃事件が起きた[6]。
1925年(大正14)6月1日にはイギリス租界暴動が起きて、日本人商店がすべて掠奪破壊され、日本人1人が殴殺された[7]。
1926年(大正15年)9月、商店三宜洋行が襲撃され、店舗、倉庫が中国人暴徒に破壊され、商品はもちろん、畳、建具、床板、窓枠までも剥がして持ち去った[7]。
1926年(大正15年)9月、国民革命軍が武漢を占領するころから、盛んに労働者を扇動し、人足や車夫、店員、工場員などに労働者団体を組織的に作らせ、二ヶ月ほどで200以上の団体、会員20万人を唱えた[8]。この労働団体の統制する組織が「総工会」で、共産党員が牛耳っていた[8]。総工会は糾察隊という6尺棒を持つ私兵を組織し、3000人を超えていた[9]。外国人を相手にするボーイなどの組織は「洋務工会」と呼ばれた[9]。
1926年11月、漢口では中国人ボーイや女中、また乳母のストライキと暴動事件が起きた[8]。糾察隊は6尺棒を持って租界を巡回し、三井物産の社員宅にその妻が一人でいたところ侵入し、押入れなどを勝手に開けるなど乱暴をした[9]。
1926年11月20日には、商店の川本洋行が中国人米屋から米俵4俵を届けてもらうと、糾察隊が「日本人には米を買わせない」と妨害し、2-30名が店内に押し入り、ショーウインドウや戸口のガラスが破壊され、商品を強奪し、店の主人は群衆にリンチを受けた川本洋行事件が起きた[10]。
1927年2月ごろから、日本租界外の同文書院付近の支那公園や富豪の屋敷の立ち樹や垣根などを引き抜いて持ち去るものがあった[11]。やがて日本人住宅にも及んだ。多くは付近の農民の女子供であったが、後には大人も出動し、大っぴらに斧で立ち樹を切り倒した[11]。農民協会で、外国人の境内であろうが、富豪の邸宅であろうが、立ち樹は中国人に授かったものだから当然奪取してよいと教えられたためという[12]。
1927年3月24日に南京事件が発生すると、中国人側は邦人凌辱事件を誇大に取沙汰し、無頼の徒は、漢口がそうなったら一番に若い女を狙うのだと放言していたとされる[13]。
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唔好唔記得中文wiki係支那人管